03. ほどけたぬくもり(追想)
一人きりの実験室。
洞府で一番見晴らしの良い場所にある、その第三実験室には、螺旋階段が設置されている。
それを上り屋根裏まであがると、天体観測が出来る仕様だ。
硝子張りの実験室の壁。
そこからは、白い大きな満月が、まるで手を伸ばせば届きそうなほど近くに感じられた。
「彼は此処の景色が好きだったねぇ」
こんな月の夜は、よく酒を持って、この洞府を訪れていたのではなかったか。
「もうどれほどの時が経ったのか、忘れてしまいそうだよ」
雲中子は、一人実験台に腰掛けて、行儀悪く足をぶらつかせていた。
最近では、箱から出す機会が減ってしまった猪口を眺める。
一人でとっくりから冷酒を注ぎ、雲中子は溜息をついた。
そうして、一口。
舌で味を堪能しながら、気づけば眉間に皺が寄っているのだった。
――燃燈道人と雲中子の関係は、決して恋人というような、甘い間柄のものではなかった。
無くしてから気がついたと言えば、それは嘘だ。
失ったわけではない事、ただ距離が離れただけである事を、雲中子は知っていたし、仮に今もまた隣にいたとしても、言うなればそう、戻ってきたとしても、二人の間の関係性が変わるとは、どうしても思えなかった。
「変わらないものなど何もないというけれど、本当にそうなのかねぇ。仙道の時間は長すぎる」
呟いてから雲中子はぐい、と酒をあおった。
一個の人は、一人しか大切に思ってはならないなどと言う決まりはない。
現に、治世する君主など、複数人の愛する者を持つのが常だ。
「どうせ、”彼”に惹かれているくせに」
雲中子は一人そう口にしてから、自嘲的に嗤った。
まるで嫉妬という感情を思い出したような気がして、酒の酔いも相まってか、楽しい心地になってくる。
老子の元にいた王奕と燃燈道人。
それまで真っ直ぐすぎる正義漢だった燃燈に、暗い道や手を汚してでも実現する事、すべき事を説いた少年。
紛れもなく燃燈を変えたのは、王奕だと、雲中子は知っている。
――未来のために、陰で尽くすという選択肢。
闇。
この宵よりもずっと暗い、人生の使い方。
「目の前で他の人を選ばれたのに、本当に待っていると思っているのかねぇ、あの馬鹿は」
気づけば、酒を啜るペースが上がっていた。
「計画に沿うと言う事は、そう言う事だろうに。どこまで図々しいんだろうねぇ」
いつか自分を抱きすくめた、燃燈の温もりの残映を振り払いながら、雲中子は頭を振った。
「一度ほどけた温もりは、元には戻らないのかも知れないのにねぇ」