02. 何も、なにもないんだ
「色物仙人三人組とは、よく言ったものだな」
喉で笑うように、訪れた燃燈道人がそう告げた。
僅かに欠けた月が見守る中、窓のない実験室で雲中子はその声を聞いた。
気づけば真後ろにたっていた燃燈道人は、微笑したまま、雲中子の隣に立つ。
「なにかあったのかい?」
雲中子が、アンプルを静かに置きながら尋ねると、燃燈が肩をすくめる。
「何か無ければ、来てはいけないか?」
「何か無ければ来ないくせに、何を言っているんだかねぇ」
燃燈へと視線を向け、雲中子は腕を組んだ。
「お前にも友人が出来たようで、私は安堵している」
「相変わらず失礼だねぇ、君は」
「失礼? 私以外の友達がこれまでにいたのか?」
「君が友達? それこそ面白い冗談だ。玉鼎だって文殊だって、楽しく話せる相手だよ。私にとってはねぇ」
「では私は、お前にとって、何なのだ?」
燃燈が揶揄するように言う。
すると雲中子は白い実験台の上に両手をついて、目を細めた。
「そもそも、私に他者との関係性を問う事自体が馬鹿げているとは思わないのかねぇ」
「思わない」
「何も、なにもないんだ」
そう告げてから、雲中子は唇を噛んだ。
「私は空っぽのままだ」
「それは、ただの希望だろう、雲中子」
「天数を視れば分かる。何かが在れば、それだけ辛くなる」
「だから何もいらないと、そう言うのか」
「分かっているのなら、聞かないで欲しいものだね」
俯いたまま雲中子が言ったとき、横から燃燈の腕が伸びた。
抱きすくめられた雲中子は、自身の髪が燃燈の厚い胸板に触った事で、漸く現状を把握した。
「私は”歴史の道標”に抗う。そう決めた」
「離してもらえる?」
「『次』は無いんだ、雲中子」
「っ」
「だからもう、『何もない』なんて言うな」
「――そうやって、そう言って、そうしていなくなるくせに?」
「お前の確かにある未来を、私は約束する」
「嘘は――」
「嘘じゃない。私はお前にも私自身にも嘘をつきたくはないんだ」
燃燈はそう言うと、雲中子を抱きしめる手に力を込めたのだった。
「ほら、嘘だったじゃないか」
三日三晩続いた燃燈と原始天尊との戦いの後、雲中子は静かにそう呟いた。
掌から砂がこぼれ落ちていくように、大事なモノも、大切なモノもなくなっていく。
「それは、君が視た未来なんだよ」
我に返ると、雲中子は老子の夢の中にいた。
「これは――……」
「貴方は、先ほど私と会ってから、清虚道徳心君や太乙真人と過ごす日々を夢に視て、それから燃燈道人と別れる未来を夢で視たんだ」
太上老君のその言葉に、雲中子は、きつく歯を噛む。
「私は君に期待をしているよ、雲中子」
「期待に応えられるのか……」
「応えて貰うつもりだよ」
本当は、何にもなくなんて無かった。
だから、雲中子は決断を迫られるのだ、緩慢に。
「何も、なにもないんだ」
雲中子が、一人そう呟いたとき、辺りの景色が様変わりした。
見慣れた洞府、此処が崑崙山である事を、雲中子は自覚した。
老子との邂逅は終わりを告げたのだ。
「何も、なにもないんだ」
――だから、失うモノなんて、何もないのだ。
そう思い直したその時は、雲中子が、未だ道徳や太乙、燃燈道人と出会うずっとずっと前の事だった。