01.戻り道なき恋心(side:道徳)
青峰山は紫陽洞。
もうじきに、十二仙へ昇格するための試験が控えている。
その焦燥を抑えるように、清虚道徳真君は早朝の修行に臨むべく、洞府を後にした。
準備運動を終えた後の、軽いランニング。
目的地は、終南山だ。
青峰山からは、それなりの距離がある。
だが折り返し地点のその場所で、愛しい人の顔を一目でも見る事が出来ると思えば、修行にもハリが出る。
道徳は、終南山は玉柱洞の主、雲中子に淡い恋心を抱いているのである。
未だ冬の息吹が周囲を覆う山道を、道徳は走っていく。
目的地に近づくにつれ、その足は速くなっていった。
無意識がなせる技であり、内心では、今日も会う事が叶うのかなんてばかり考えているから、己の速度には気がつかない。
「やぁ、道徳。今日も早いね」
愛しい人の声で我に返った道徳は、膝に手を付き肩で息をしながら、空を見上げた。
日の角度から、未だ、朝の五時を回った所だろうと見当をつける。
道徳に声をかけた雲中子はといえば、梅の幹に手を添えてニヤリと通常通りの笑みを浮かべていた。
「昇仙したんだから、そこまでもう朝の修行に打ち込む必要はないんじゃないかと思うんだけどねぇ」
舞い落ちてくる梅の花びらを手で掬いながら、雲中子がそんな事を言った。
青峰山に洞府を構える前、未だ道士だった頃から、道徳は毎朝ランニングを欠かさなかったのだ。はじめこそ師の言いつけだった。だからこそ、雲中子も修行について止めて良いのではないかと、そう言うのだろうと道徳は思う。
「関係ない。俺の朝は、ここに来る事から始まるんだからな」
終南山は折り返し地点である。
だが道徳の中では、雲中子の顔を見る事こそが、気持ちの良い朝の始まりなのだ。
道徳は、自身の胸中にあるその感情の名前が、『恋』というのだろうと、うすうす感づいていた。ランニングとは異なり、戻り道なきこの恋心は、毎朝毎朝進むべき先を探して、道徳の胸を騒がせる。
「それにもうすぐ、十二仙に昇格できるかどうかって言う大切な試験もあるしな」
そんな心中を振り払うように、道徳が朗らかに告げた。
「十二仙?」
道徳の放った何気ない言葉に、雲中子が視線を向けた。
「ああ。お前は何で受けないんだ?」
頷きながら、長い事、十二仙へ昇格するための試験を受ける気配がない雲中子に今更ながらに気がつく。
仙人になってからの経歴的にも、期間的にも、そして何より実力的にも、雲中子は『高仙』と呼ばれるにふさわしいはずだ。詳しい事は道徳も知らなかったが、少なくとも道徳が崑崙に昇ったときには既に雲中子はいた。仙人として。
雲中子に比べれば、まだまだ昇仙して日が浅い自分が、このように話を出来る事の方が、通常ではあり得ないはずなのだ。
俗に言う体育会系の道徳は、修行の時に怪我をする度、医学に詳しい雲中子の世話になっていたため、今では親しくなる事が出来たのである。
――親しくなってるよな?
道徳は心中で考えながら、まじまじと雲中子の視線を受け止めた。
道徳の方が僅かばかり背が高いが、ほぼ正面から視線を交わした。
こんな風に目が合うのは一体いつぶりだったかと、道徳は考える。
「私には、自己犠牲が伴う職務の重さを、受け止めて全うするだけの能力があるわけじゃないからねぇ。自分の好きな事をして、好きな研究に打ち込みたい。ただそれだけだよ。十二仙にならないかと打診された事すらない」
「冗談だろ? 燃燈様がお前に声をかけないはずがない」
「それこそ笑えない冗談だね。あいつが筆頭を務める場所に、私が呼ばれるはずもない」
そうは言ったものの、雲中子は、何かを懐かしむように肩をすくめて微笑んだ。
彼が表情を変えるのは、大抵燃燈道人について話が及んだ時である。
それが少しばかり面白くなくて、道徳は顔を背けた。
「燃燈様と、ほんと仲が良いよな」
「私は眼科も得意だよ。目を負傷する者は多いからね。急所の一つだから」
「俺の視力は3.0くらいある」
「確かに道徳は、目が良いみたいだねぇ。残念だ」
普段通りのにやりとした笑みでそう告げた雲中子を一瞥してから、道徳は短く息を吐いた。
彼は時折、雲中子と燃燈道人の仲に不安を覚えている。
けれどもう、雲中子の事が好きだという素直な感情が、後戻りする余地なんて、何処にもないのだった。
「じゃあな、俺は戻るよ」
静かに目を伏せ、不安の霞に覆われた脳裏を明瞭にしようと心がけ、首を振る。
「待って、道徳」
だが、至極珍しい事に、雲中子から声がかかった。
双眸を開き、道徳は顔を上げる。
「十二仙なんて、良い物じゃないと思うよ。やめておきなよ」
何故雲中子はその様な事を言うのだろう。
道徳にはそれが分からなかった。
――少しでも雲中子に近づきたい、そんな思いこそが昇格試験に臨む動機の一つでもあったからだ。
「俺は、決めたんだ」
十二仙になり、高仙である雲中子と対等の立場になる。
そしてこの恋心を、いつか伝える。
道徳は再び決意し、一人頷いた。
それを見守っていた雲中子は、嘆息するように吐息してから、空を見上げた。
「そう。だったら、応援しているよ」
温かいエール。
道徳は虚を突かれ、雲中子のその言葉を、何度も脳裏で反芻した。
「おぅ!」
それから、きびすを返して青峰山へと戻るまでの間ずっと、道徳は雲中子の事を考えていたのだった。