08.オイ、
試験管が、雲中子の骨張った手から、床へと落ちて割れた。
飛び散った破片、それを拾おうとして、雲中子は指先に怪我をした。
――血を見ると思い出す。
血液自体は見慣れている雲中子だったが、その自分の中にあった温度と滑る感触、匂いに、あの日の事を想起するのだ。燃燈が地へ堕ちたあの日の事を。
雲中子が手当をした翌日、すぐに彼は、現れた黒鶴童子と共に、その場を離れた。
――あの時の燃燈の血も熱かった。
その後幾度かは、人目を忍ぶように燃燈が玉柱洞を訪れる事もあったが、それも三百年ほど前から途絶えている。代わりに前後して、太乙真人が来るようになり、それから百年ほどして、道徳真君が来るようになったのだったか。
「オイ、――」
ぼんやりとしている様子の雲中子に、珍しく道徳が声をかける。
気づけば実験室の扉が開いていて、心配顔の道徳がそこにいた。
「大丈夫か?」
「ん、ああ。たいした傷じゃない」
「そうじゃなくて……」
「なんだい?」
「心配そうな顔をしてるだろ」
「私が?」
「ああ。やっぱり太乙の事が心配なのか?」
太乙真人は、ここのところ、霊珠の核の制作が佳境に入っているため、己の洞府にこもっているのだ。
恐らく太乙の事だから、食事も満足にとってはいないだろうと、道徳は心配している。
「私に心配されるほど打ち込むような時期じゃないよ、太乙は。ただ繊細な作業をしているからより作業がやりやすい環境に戻っただけじゃないのかねぇ。だから君がそこまで心配りをする必要は無いと思うよ」
「つまりお前の心配事は他にあるって事か」
道徳の鋭い声に、雲中子は何度も瞬きをした。
「私が、心配?」
気づけばいつも通りの作り笑いが浮かぶ。ニヤリ、としたそれだ。
「ごまかすなよ」
「別にそう言うつもりじゃ――」
「オイ、その」
「なんだい?」
「何か困った事があるんなら言えよ。聞くぐらいは俺だって出来るし」
「困った事ねぇ」
雲中子は、どうして自身が困っていると言われているのか分からなくなりながら、応えた。
「目的の太乙もいないのに、洞府に入り浸っているスポーツ馬鹿の存在が邪魔かな。私は一人が好きだからねぇ、やっと一人になれると思ったのに」
本当はそんな事が言いたいわけではなかった。
それでもそうした単語の羅列が、口をついて出てくるのだった。
「俺は別に、太乙が居るからここに来てるわけじゃない。もう、な。そりゃ最初は、そういうのもあったけど」
「じゃあどうして?」
「お前の事も大切な友達だと思ってるからだ。太乙が居なくたって、俺とお前は友達だろ? 来ちゃ駄目なら言ってくれ。俺だって邪魔がしたいわけじゃないから。ただ気の置けない友達と、茶でも飲みたいだけだ」
「私と君が一体いつ友達に――……」
そう言いかけた雲中子は、いつか似たようなことを、燃燈に対して告げた事を思い出した。
いつも、いつだって、いつの間にか、なのだ。
大切なモノが出来るのは。
「なったかなんて、言おうとした自分が馬鹿みたいだよ、私は」
雲中子は頭を振りながら、そう続けた。
「有難う、道徳」
「いや、悪い、俺、お前らと違って頭悪いから思った事をすぐに言っちゃうんだよな」
「頭が悪いなんて、そんな事はないと思うよ。知識を深めている太乙も、宝貝の手練れの君も、どちらも比較できない分野で才能を高めて居るんだから」
「何かお前にそう言われると、嬉しいな」
「そう? 私の褒め言葉は、良くうがった見方をされるから、率直に喜んでもらえるとこちらも嬉しいものだねぇ」
「で、何を悩んでいたんだ?」
「悩んでいた訳じゃないんだよ、本当に。ただちょっと思い出していたんだよ。昔の事を」
雲中子はそう口にしてから、指先を手当てした。
道徳が傍らで、硝子の破片を片付けてくれる。
「君はさ、もし太乙が『大切な未来』のために、何かをしようとしていたらどうする?」
「応援する」
「手を貸したいとは思わない?」
「場合によるな。俺は、未来よりも『今』を大切に生きていきたいんだ。未来を考えると、不安ばっかり浮かぶからな」
「道徳が不安に?」
その言葉に、雲中子はドキリとしながら問い返した。
「そりゃ俺だって不安にもなる。例えば、俺がいて不幸な将来と、俺はいないけれど幸せな将来、とか、さ」
苦笑するように道徳が言う。
「君が居ない事で不幸になる人間だっているのだろうから、後者は成立しないはずだよ」
「そうだと良いな」
「そうなんだよ」
「それって俺が居なくなると、寂しいって事か?」
「そうかもしれないねぇ」
「じゃあ俺は、雲中子を、友達を悲しませない最善の策がとれるように、いつでも頑張るよ」
雲中子は道徳のその言葉に、何か途方もない間違いを、自分が犯したような気がしたのだった。