06.手を伸ばしたりしないで
たまたまその日、玉虚宮に所用で来ていた清虚道徳心君を、慈航道人が呼び止めた。
「お前聞いたか? ここ何百年も、太乙が、あの変人で有名な雲中子の所にあしげく通ってるって」
慈航の言葉に、道徳が顔を曇らせた。
「聞いたって言うよりは、知ってる――ここのところ、太乙の所に行っても誰もいないからな。本人にも直接聞いた」
「直接聞いたって、あの若干ナルシストにしろ綺麗な太乙と、変人ここに極まる奇矯な雲中子が、つきあってるって本当なのか!?」
「そんな話は聞いた事無いぞ。そういう事になってるのか?」
「なんだよ、吃驚させるな」
「兎に角それは、ただのデマだと思うぞ」
「だよなぁ。太乙には、お前が居るんだし」
「へ?」
「今更何言ってるんだよ、道徳。お前、太乙の事が好きなんだろう?」
慈航のその言葉に、道徳は瞠目した。
――俺が、太乙の事を好き?
友人として好きなのは間違いがなかったが、慈航の言う好きは、少し違うものに思えた。
瞬間、嫌に鼓動が耳についた。
ドクンドクンと高鳴る心音に、自身が太乙の事を好きであるらしいと、その時やっと道徳は気がついた。
「俺、ちょっと行ってくる」
「おい、なんだよ急に、第一何処に行くんだよ!?」
「太乙というか、雲中子の所!」
そう叫び返してから、道徳は走り出した。
――終南山は、玉柱洞。
道徳が向かった先では、呼び鈴を押しても誰も出てくる気配がなかった。
もどかしくなって、道徳がエントランスの扉を開ける。
そして一歩足を踏み入れ――た瞬間、床に暗い穴が空いた。
「ちょ、な、待っ――」
落下しそうになった道徳は、必死の思いで床に手をかける。
そうしていると、のんきな声がかかった。
「不法侵入者が居ると思ったら、中々に丈夫そうな献体で良かった。所で、君誰?」
「清虚道徳心君――おい、落ちるってこれ。危ないだろう、玄関にこんなもの」
持ち前の腕力を生かし、床まで這いのぼった道徳を見て、雲中子が腕を組む。
「で、用件は? 最近、太乙真人を返せーって言って、色々な人が来るものだから罠制作にも気合いが入ってしまってねぇ」
「俺も似たような用件だ。太乙が入り浸ってる、お前がどんな奴なのか知りたかったんだよ。太乙の側にいて安心な相手かどうか」
随分と失礼な事を言っているのだと自覚しながら、道徳は正面から雲中子を見た。
道徳の方が僅かに背が高いが、あまり背丈は変わらない。
「安心とは言い難いかも知れないねぇ。で、安心な相手じゃなかったら、どうする気だい?」
「太乙を説得する」
「そうして貰って全然構わないよ」
「――へ?」
「元々私は一人で実験をしていたんだし、現在の状況は、別に私が望んだものじゃない」
「太乙と毎日一緒にいられるのに、か?」
「一人は一人で、気が楽なものだよ」
「そんな事言うなよ、みんなで居るのも楽しいだろう?」
「それは君の価値観じゃないか……要するに君も、私が太乙の隣で実験しているのが不満なんだろう? なんだかねぇ、もうそう言う事柄に疲れてしまったんだ。私が一体何をしたって言うんだろう。だけどいっそ、私がその穴に落ちて消えた方が、君には都合が良いのかもねぇ」
雲中子はつらつらとそんな事を呟くと、一歩足を踏み出した。
目の前で落下しようとする雲中子を見て、反射的に道徳が手を伸ばす。
穴に落下しようとしている雲中子の体は、道徳の手によってなんとか支えられた。
「どうして、手を?」
「あたりまえだろ、落ちたら危ないじゃないか」
「だけど私はいない方が良いんだろう?」
「俺はそんなつもりで言った訳じゃない。兎に角、お前、何か疲れてるみたいだな」
「そうなのかもしれないねぇ。もう60時間以上は寝ていないから」
「三日も徹夜って……」
雲中子の体を引き上げてから、道徳は深々と息を吐いた。
「一人が気楽って言うけど、今太乙がいても別に嫌じゃないんだよな?」
「まぁねぇ」
「だったら、もう一人くらい増えても変わらないよな?」
「どういう意味だい?」
「俺はお前の事を未だよく知らないけど、なんだか危なくて見ていられない気がする。それに、太乙もいるんだろ? だったら、俺も明日からここに来る」
「此処に来るって……」
「太乙が良くて、俺は駄目なのか?」
「そういうわけじゃないけど、君が何かの実験や研究をしているようには見えないよ。しないなら、ただ暇な時間を過ごす事になるだろうし、正直邪魔だよ」
「筋トレしてる、絶対に邪魔はしないって誓う」
本当は一人が良いのだと、そのはずだったと雲中子は思った。
けれどまた新たに、雲中子に対して手が伸びてきた。
――手を伸ばしたりしないで。
そんな雲中子の想いは、誰にも届かない。
――どうせ、いつかいなくなってしまうくせに。
翌日の玉柱洞。
「へぇ、そんな噂が広まってたんだ」
道徳の説明は、明瞭さに欠けてはいたものの、太乙は何か一人で頷いていたのだった。