01.始まりはその前から




伏羲の話を、原始天尊と共に咀嚼し形にしようと結論づけたその日、その足で燃燈道人は数少ない友人の洞府を訪ねていた。
「なんだい、珍しいねぇ」
いつもと変わらず飄々と出迎えてくれた雲中子の姿に、気づけば燃燈は安堵していた。
その様子を見て雲中子が続ける。
「忙しいんじゃなかったのかい?」
「これからさらに忙しくなる」
差し出された白茶の浸る湯飲みに手を添えながら、燃燈は俯いて赤い髪を揺らした。
「――私たちが今、視ているこの世界が、誰かの手によって作られたものだとしたら、どうする?」
尋ねてから、燃燈は茶を一口、静かに飲んだ。
「手に触れている一つ一つ、その全てが、誰かの意志によって作られたものだとしたら?」
燃燈の問いに、雲中子は一拍だけ動作を止めた。
「伏羲に会ったの?」
それから視線を燃燈に向けた雲中子は、小首を傾げてみせる。
「嗚呼。もう、だいぶ前にな。千五百年前と言った所か」
簡潔な燃燈の応えに、師である老子の元に暫し居た少年の姿を想起する。


綺麗なもの、美しいもの、穏和なもの、平和なもの。
それらを求めていた、はずだった。


燃燈道人と雲中子は、ほぼ同じ頃の外見年齢だった。
だから、ある意味幼少時から互いに知っている。言うなれば、仙人界においては幼なじみのような関係だ。
場所を玉柱洞の外れへとうつし、二人はどちらが言うでもなくアルコールを飲み始めた。
「私は、理想的な仙人界を夢見ていたんだ」
雪を眺めながら日本酒の味を楽しんでいると、隣で燃燈道人が呟いた。
「だから、この目に映る全てが、この世界が、誰かの手によって作られただなんて思いもしなかった」
猪口を片手に持ち、燃燈がぐいと熱燗をあおる。
「そんな大事な話を、ペラペラと部外者に話しても良いのかい?」
横で徳利を持ちながら、雲中子が苦笑する。
「お前は老子の弟子だ。どうせ知っていたんだろう?」
「知らなかったと言えば、嘘になるのかも知れないねぇ」
「私は、私の手で理想の世界を創りたい。他者に示唆された道など御免だ――歴史の道標など、不要だと考えている」
空になった燃燈の猪口に酒を足しながら、雲中子は空を見上げた。
下弦の月が二人を見下ろしている。
「哲学的ゾンビ」
ポツリと、雲中子が呟いた。
「己がゾンビである事を自覚できなければ、ヒトとどう違うのか」
「何の話だ?」
ゾンビという語を知らない燃燈が尋ねると、苦笑するように雲中子が顔を背けた。
「誰かに操られているのだとしても、それを自覚できない限り、其れは操られてはいない誰かと変わらないんじゃないかって話だよ。今回の件、逆説的に言うならば、『歴史の道標を倒す』事を誰かに命じられ、そう意図されているのに、本人は気づいていないという場合もあるはずだ」
雲中子がつらつらと述べた言葉に、酒をあおった後燃燈は頭を振った。
「操られているのだとしても構わない。歴史を決定される事など、不本意だからな」
「だからその思考自体が――」
「それでもいい。自分の未来は、自分でつかむ」
きっぱりと言い切った燃燈は、それから雲中子に向き直った。
「今まで言わなかったが、愛している」
燃燈の真摯な瞳に見据えられながら、雲中子はその言葉を聞いた。
「え?」
「明明後日から……私はもう崑崙にはいないだろう。皆の事を頼む」
「ちょっと待って――」
「信頼している、雲中子」
ずるい、そう雲中子は思った。
愛という言葉から、逃げようとしていた、避けようとしていた、汚い自分を思い知った、そのことよりも。
真摯に見つめてくる彼の瞳に、何も言えなくなってしまう。
雲中子が次の酒をつぐ前に、そのまま燃燈は帰ってしまったのだった。