線路の無い駅
「はじめまして、許由」
雲中子が声をかけると、白金色の髪をした少年は、黒目がちな瞳を上げた。
「彼は、申公豹という道士になるんだ」
面倒くさそうに老子がそう紹介すると、許由が会釈をした。
「それでは、申公豹と呼ぼうかねぇ」
「その名前で私を呼ぶのは、貴方で二人目です」
「一人目は、そこにいる老子かい?」
雲中子が、口角をつり上げて笑ってみせると、さして興味もなさそうな顔で、申公豹が頷いた。
「許由は『この世界』での、私の初めての話し相手なんだ。――雲中子、貴方は寝不足みたいだね。丁度許由のお昼寝の時間だから、少し休んでいくと良いよ」
「私を子供扱いしないで下さい」
許由が唇をとがらせる。
実際、雲中子はここのところ寝不足だったから、その誘いは魅力的にも思えた。
原因は――燃燈道人と原始天尊の激しい戦闘と、それによる崑崙山の大混乱だ。
「折角老子と違って、稽古をつけてくれる仙人が来たと思ったというのに」
その時、大きな溜息を申公豹がついた。
なんだかその熱心な様子に懐かしさを覚えて、雲中子は珍しく微笑した。
彼は今、仙人界という駅にたどり着いたばかりなのだろうと感じた。
そこから先の線路はない。
無いはずなのだ。
歴史の道標の存在さえ知らなければ、それは誰にでも約束された未来なのだ。
「私に出来る事は、全て教えよう。よろしく、申公豹」
「貴方に出来る事? 一体貴方に何が出来るのですか?」
「私の名前は雲中子。師兄と呼ぶのが、仙人界のルールみたいなものだよ。例えば、こういう礼節から、そうだね、君が望むのならば、力の使い方を」
「……分かりました、師兄」
若干不服そうに言った申公豹の姿がおかしくて、雲中子は思わず笑みをこぼした。
「ここでは構わないよ。いや、ここじゃなくても構わない。君が呼びたいように呼べば良いんだ、本来はね。ただこの桃源郷の外には、そう言う事に煩い人もいるから気をつけた方が良いと言うだけだよ」
――例えば、燃燈道人だとか。
そう考えて、嫌な事を思い出してしまったなと、雲中子は眉間に皺を寄せた。
「じゃあね、雲中子。私は寝るよ」
その時、のんきな太上老君の声が辺りに響いた。
それで我に返った雲中子は、小さく頭を振って、意識を目の前の事柄に集中させる。
「本当に、お疲れなのですか?」
老子のホログラフィーが消えてから、遠慮がちに申公豹が尋ねた。
「少しだけ、ね」
「よく眠れなかったのですか?」
「眠る時間がとれなかったが、正しいかも知れないねぇ」
「何をしていたのですか?」
「そうだねぇ……実験のようなものかな」
「実験? 何の実験です?」
初めて好奇心の色を瞳に宿して、申公豹が顔を上げた。
そんな様が若々しく思えて、雲中子は静かに何度も頷いた。
「これから、いくらでも教えてあげるよ――これから、長い時が始まるのだからね」
いつか老子に聞いた言葉。
そこから『再び』という語を取り除いて。
今度こそ、不幸な刻が繰り返さず、線路が無くても自分たちの旅路を、歩んでいければ良いなと雲中子は考えた。
それが、線路の無い駅からの出発。