回り続ける羅針盤




「雲中子、紹介するよ。彼は伏羲――始祖の一人だ」
ある朝、珍しく老子が怠惰スーツを纏わず起きてきたと思ったら、一人の少年を伴っていた。黒い髪が、肩につきそうなくらい伸びている。
目立つ手袋をはめている少年で、『電気ヒツジ』だなんて、懐かしい語の入った服を着ていた。かつての世界で見た事のあるSF小説がモティーフなのだろう。
「はじめまして」
機械的に、興味がなさそうに、伏羲という少年が告げた。
「はじめまして」
冷たい藍色の瞳がそこにはあった。
あまりにもぶしつけに見てしまったのだろうかと後悔しながら、雲中子も挨拶を返す。
――彼が始まりの人の一人、伏羲であるという事は、ジョカを倒す計画がまた一つ前進したと言う事なのか。
そう思案していると、静かに伏羲が頷いた。
「ジョカは弱ってきている」
心を読まれたのだろうかと息を飲んだ雲中子に対し、老子が吐息するように笑んだ。
「顔に出てるよ。眉間の皺、どうにかした方が良いんじゃないかな。外見年齢にそぐわないよ」
「事態は深刻だ、けれど今、貴方が思い悩む必要はない」
伏羲にまで慰められ(?)、雲中子は、ばつが悪い思いで顔を背けた。
「貴方と会うのは初めてだけれど、私は貴方によく似た友人を持っていた」
すると顔をのぞき込むようにして、伏羲が言った。
「それは光栄だねぇ」
「否。断ち切らなければならない因果にすぎない。回り続ける羅針盤は、此度の世界で止めなければならないのだから」
伏羲の言葉に、欠伸をしてから老子が頷いた。
「歴史の道標が手にする、空虚な理想郷への羅針盤は必ず壊すよ、きっと誰かが」
「ご自分でどうぞ」
雲中子が告げると、老子が腕を組んだ。
「出来るものならとうにしているよ」
「今は未だ、力を蓄えるべき時」
伏羲は淡々とそう告げてから、老子へと視線を向けた。
「崑崙山と金鰲島は、もう出来たのですか?」
「そのようだね、原始が力のある――仙人骨がある者を集めている。だけど彼は未だ、気がついてはいない。歴史の道標の存在に」
「それで良い。ただ動向はしかと見守らなければならない」
伏羲の声に、太上老君が大きく頷いた。
「そう言う事だから、よろしくね、雲中子」
「――はい?」
不意に水を向けられ、雲中子は困惑した。
「貴方には客仙として、暫しの間、崑崙山に身を寄せてもらう」
「そんな事を、急に言われても――」
「貴方はここに来てから、ほとんど私としか話をしていない。この世界を、もっと知るべきだよ。原始天尊には、何度か貴方もあった事があるでしょう? 彼の創った仙人界なら、なんの心配もない」
「……ですが、今までの話の流れを視る限り、私に崑崙山の偵察をするようにとの指示に聞こえたのですが」
「それもある。だけど、いつでも帰ってきて良いんだよ、雲中子。それに私とは、夜、夢の中でいつでも会える。週に一度は君のために、時間を作るよ、夢の中で」

こうして雲中子は、崑崙山へと身を寄せる事になった。
この世界の運命の羅針盤は、未だ回り続けたまま――……。

「まぁ崑崙山に行けば、農作業をしないで好きなだけ実験していて良いっていうし、少しくらい行ってみるのも悪くないかなぁ」