電灯の無い夜道
仙人界が出来てから二百年が経過した。
その間も、桃源郷は相変わらずで、老子と名乗った青年は元来こそ兵士用だったスーツを纏って惰眠を貪っているらしかった。
いつしか、滅びた文明では兵士のための最先端の戦闘用スーツであった代物は、怠惰スーツと呼ばれ、老子が好む衣に成り下がった。
雲中子は、”雲中子”という自身の名にも、桃源郷の澄んだ空気にも慣れつつある。
ここでは数十年から数百年かけて一歳程度しか老化はしないらしく、今も未だ忌まわしい記憶に溢れたかつての世界での外見年齢から大きく変化しては居なかった。
しかし生活は大きく変わった。
畑を耕した事など、そもそも自然の土に触れた事すらなかった雲中子は、修行の一環と称され行っている農作業に、漸く慣れ始めた所だった。
雲の合間にある空中都市――それが、桃源郷だった。
「あれ、おかしいねぇ」
辺りが暗くなり出した頃、雲中子は一匹の子羊の姿が見えない事に気がついた。
老子は眠ってばかり居たから、現在の雲中子の家族のような存在は、紛れもなく羊たちだった。その羊達の内の一匹の不在が、雲中子の心を騒がせた。
動揺が、焦燥が、彼を居ても立っても居られなくする。
気づけば、雲中子は、子羊を探すため走り出していた。
自然のままの、獣道しか存在しない桃源郷には、当然の事外灯もない。
雲の合間にある一本道を、それでも雲中子は進んでいった。
すると、道の突き当たりの左側に、子羊がうずくまっている姿が見て取れた。
「良かった」
安堵と共にそう漏らし、雲中子は手を伸ばした。
その瞬間だった。
気づけば足下が消え去っていて、雲中子は常闇の中に落下しそうになる。
――落ちる。
彼は衝撃と死を覚悟した。
しかし、そうはならなかった。
「雲中子」
優しい声をかけると共に、パシッと高い音を立てて、雲中子の手を老子がつかんだのだった。
「老子……」
ひ弱そうな青年の何処にそんな力があるのか不思議だったが、老子はそのまま雲中子の体を道の上へと引き上げた。
「いつお目覚めに?」
「さぁ。どうだったかな――怪我は?」
「ありません。有り難うございます」
「嘘。左手の甲に傷がついているよ」
落下しかけたときに、崖でこすったのだろう。
言われてみれば鈍く痛む事に、雲中子は気がついた。
「君の探していた羊は、見つかったよ」
「本当ですか」
「うん。だから、帰ろう」
老子の正面に立って、雲中子は頷いた。
「何が見えても、私の後ろを決して離れずに歩いてね」
「? 分かりました」
歩き出した老子を追いながら、首を傾げつつ雲中子は応える。
すると暫く歩いた時、そこに懐かしい街並みが見て取れた。
――ジョカに破壊される前にいた、時計台と信号機を視覚が捉える。
「っ」
「雲中子。ここでは、貴方が視たいものが、視えるんだ。誘蛾灯のようにね。たぶらかされて近寄れば、地に落ちるよ」
「幻覚、ですか……」
呟きながら、僅かな心細さを覚えて、雲中子は俯いた。
「――え?」
その時、ごく自然な仕草で、太上老君は雲中子の手を取った。
外見は未だ少年とはいえ、雲中子はもう手をつないで歩くような、子供の年齢ではない。
だから気恥ずかしくなって、唇を噛んだ。
「やめてもらえないかねぇ、一人で歩けるよ」
「私から見れば、貴方はまだまだ子供だよ」
電灯の無い夜道をそうして二人で歩いていると、いつしか幻影は出現するのを止めた。
「ねぇ、雲中子」
「なんです?」
「貴方も帰りたいの? ジョカのように、自分のいた世界に」
その問いに、雲中子はつないでいる手に力を込めた。
「いいえ」
この暗い夜道に似ていた胸中に、未来という灯りをもたらしてくれた老子の力になりたいと、少しだけ、雲中子は考えていたのだった。