これは、桃源郷に信号機が設置される前の記憶と記録。
錆びれた信号機
天変地異――そう名付ける事が、本当に正しいのだろうか?
罅割れたアスファルトの上、寂れた信号機、錆びつき傾いた柱に利き手を預け、彼は天を仰いだ。
小学生くらいに見える少年は、その時そこで待ち合わせをしていた。
遠方の空が、もう宵の頃合いだというのに、鮮やかな橙色で埋め尽くされている。
見上げた視線を、そのまま彼は、手にしている支柱へと向けた。
そこでは停止を告げる赤い色が明滅している。
――恐らく、全ての命ある者を抹殺するまで、終わらないのだろう、この殺戮は。
彼がそう考えた時、肩を叩く者がいた。
「時は繰り返す。貴方の時間も、私の刻も」
驚いて振り返った彼は、近頃の戦乱の最中、売れ行きを伸ばしているスーツを纏った”その人”を視界に入れた。
人工呼吸器や栄養補給のための機関が内蔵された、兵士用のスーツだ。
「どういう意味なんだい?」
「そのままだよ」
「兵士ですよね? 避難誘導は?」
「確かに私は、安全な場所へと、貴方を導く事が出来る」
手を取られた彼が、黒い短髪を揺らした直後、辺りの景色は変わった。
「ここは?」
「桃源郷さ」
「なにを――」
「全ては、ジョカが巻き起こした事なんだよ」
「ジョカ?」
「この世界は、”歴史の道標”によって支配されている。計画から外れれば、泡沫よりも儚く散る事が定められて居るんだ」
羊の群れの上に横たわった兵士用スーツ姿の相手は、フォログラフィーを出現させた。
青緑の髪の色に、橙色のアウターを羽織っている。
「この世界は、初めてではないんだよ、雲中子」
「雲中子?」
「これからの貴方の名前だよ。貴方の知性と力は、”始祖”によく似ている」
案内された桃源郷の虚空には、無数のウィンドウが開いていた。
厚みのないモニターの数々が、世界規模でのジョカによる破壊を映し出している。
「貴方は、ジョカと伏羲を知っている?」
「――確か、古い中国の伝承の神だと……」
「そうだね。では、神農は?」
「三皇五帝……諸説在りますが、ジョカと伏羲、そして神農が三皇――即ち神であると」
「博識だね」
「比較神話学の知識をローディングした事があるだけです」
「残念ながら、神話は全てを伝えはしない。始祖は五人いた。異星からやってきたんだ。その中心がジョカだった。伏羲は、ジョカの力が弱まり、滅する事が出来るようになる日を待っている」
「話が見えない」
「見る必要はないよ、ありのままだから」
「……他の始祖は、異星人はどうしたんですか?」
「この地と同化した。だから時折、彼らの力を継ぐ者達が現れるんだ」
「それは、殺戮の力ですか?」
「使う者によって、それは変わるよ。貴方は、神農によく似た力を持っている」
「……意図せず訪れた終焉に際して、君は妄執にとりつかれてしまったんじゃないのかい?」
「残念ながら、私はこれで二度目となるんだ、歴史の繰り返しに遭遇するのは。ジョカによる破壊と再生に立ち会うのは。だけど、ね――三度目はない。必ず終わらせようと思っている。その為に、貴方に協力して貰いたいんだよ、雲中子」
雲中子と呼ばれた少年は、沈黙を保ったまま俯いた。
「どうせもう、帰る場所なんて無いんだよ」
続いた声に、雲中子の脳裏では、ジョカによる殺戮の風景が、ありありと再生された。
画面に映っているものとは異なる、もっと現実感を伴った、確かに身近にあった数々のモノの破壊の光景が。
「……これが、繰り返されている事だというのですか」
「そう。その通りだよ」
「繰り返さないための準備は整っているのですか?」
「今、準備しているまっただ中さ。例えば、貴方を勧誘したり、ね」
「私に出来る事が、本当にあるのですか?」
「無ければ、貴方を此処には連れてこないよ」
「結論は――貴方の考えに沿うという結論を出すのは、今でなければなりませんか?」
「別にいつでもかまいはしない。これから、再び長い時が始まるのだから」
先ほどまで、錆びれた信号機に手を預けていた雲中子は、それから思案するように双眸を伏せた。悩ましげな表情が、失った街を追憶しているようだった。
あっという間の出来事だったのだ、何もかもが。
そうして、彼が喧噪から離れ、悩んでいる最中に、一つの文明は終焉を迎えたのだった。